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源義経のハートを射抜いた白の反射効果

2011年03月12日

源義経は、軍事の天才だった。「われこそは……」と名乗りを上げ、1対1で戦うのを常としていた時代に、集団戦法でゲリラ戦を繰り返し、何倍もの平氏の大軍を小気味よく倒していった「戦の天才」。だが、義経の人気は、その天才性によるものだけではない。平家を滅亡させた最大の功労者でありながら、平家追討のためにともに戦った兄・頼朝にうとまれ、流転を強いられた悲劇の武将。奥州・衣川で迎えた死は、長くナゾとされ、いつしか一代の英雄の死を惜しむかのように、「判官びいき」という言葉まで残った。これは、第三者が不遇な者や弱者に同情することだが、九郎判官(義経が朝廷から賜った官位)義経のような不遇の英雄に世間が同情し、ひいきしたことからこの言葉ができたのだ。源義経は、強さ、いじらしさ、悲劇という日本人が好きな「涙の三大条件」を備えた英雄だったということもあって、今も人気が高いといってもイイかもしれない。その源義経の寵愛した女性が、静御前。源義経と出会い、波乱の人生を負うことになった静御前は、義経とともに広く愛されている。ふたりの悲しいストーリーは2005年のNHK大河ドラマ「義経」でも、記憶に新しいところだ。最愛の義経が兄・頼朝に追われるだけでなく、義経との間に生まれた子どもも殺されてしまうという悲運の女性。義経のことが後世に語り継がれるうえで、静御前はなくてはならないほど重要な存在だ。そもそも静御前は、平安時代の終りごろに始まった舞・白拍子の創始者ともいわれる、磯禅師の娘。白拍子というのは、平安朝末期に起こった歌舞。鼓を伴奏としてうたう歌をさしたが、後にはそれを演じる女性のこともそうよぶようになった。男物の水干(狩衣の一種。縫い目につける菊花形の飾りである菊とし、胸ひもがある)を着て、袴をはき、頭には立烏帽子、腰には白鞘巻(つばのない短刀。腰刀)を差している。この姿で、白拍子は舞を舞った。もともと白拍子というのは、平安末期には庶民や貴族の間でもてはやされ、いわば現在のアイドルのような人気者もいれば、売春婦と変わらぬ者もいたようだ。室町時代初期に書かれた『義経記』によると、静御前が歴史の舞台に初めて登場するのは、1182年(寿永元年)京の神泉苑の池で催された雨乞いの儀式だ。神泉苑は、平安京遷都の794年(延暦B年)、桓武天皇が平安京造営に先立って計画し、天皇の遊興の場として開いた広大な庭園。平安京は、風水に基づいて造られたといわれているが、この神泉苑も風水と深いかかわりがあった。大地の気の流れを都に取り込むための重要な場所だったというのだ。霊場としても有名で、824年(天長元年)、干ばつのために淳和天皇の勅令によって弘法大師空海が神泉苑で雨乞いの祈祷をし、京の都に雨を降らせたという話が残っている。実は、雨乞いの儀式で雨を降らせるかどうかは、この当時の支配者にとって、その真価が問われる重要なことだった。1182年当時、京では干ばつが続き、川の流れもなくなり、餓死者が続出するなど、人々は苦しんでいた。朝廷の命で、比叡山や三井寺、東大寺、興福寺などの高僧・貴僧(身分の高い立派な僧)100人が、神泉苑の池で経を読んだが、一向に効果が見られない。そこで、後白河法皇は見目麗しい白拍子100人を選び、神泉苑で「雨乞いの舞」を命じた。そのなかのひとりが、静御前だ。大勢の見物人の前で白拍子がひとりひとり舞っていく。しかし、99人舞っても、空の様子は変わらない。ところが、静御前が舞い始め、曲も半ばにさしかかると、突如、空に黒い雲がわき出し、稲妻が光り出したという。その後、雨は3日間続いた。後白河法皇は「カノ者ハ神ノ子カ?」と感嘆。静御前を讃えたという。静御前と源義経が出会ったのはこのときだという説もあるが、義経上洛のあとに行われた祝勝会の席でだとか住吉での雨乞いのときだという説もある。いずれにせよ、静御前は平安時代から武士の世へ遷り変わろうとする時代のヒーローだった源義経にその舞い姿を、みそめられ、やがて時代の流れに翻弄されていくことになったのだ。